こぐこぐ自転車 表紙

【自転車本を読む】「こぐこぐ自転車」伊藤礼著 | 年齢の呪縛を解き放とう!

こんにちは、ゆらです。

ゴールデンウィークで時間があったので、久々にこの本を読みました。2006年頃に制作されたNHKのドキュメンタリーを見て感動し、購入した本です。10年以上の時が流れての再読、新たな発見がありました。スポチャリに乗る、特に中高年にはお勧めです!

「こぐこぐ自転車」伊藤 礼 著

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スポチャリと、意外性のある取り合わせ

スポチャリ、スポーツ自転車が大好きになって、ついにクロスバイクからロードバイクに乗り換えたとき、私は40代を過ぎていました。「自転車って、こんな遠くまで行けるんだ!」と言う大発見をして、自転車が私の人生の相棒だ!と言う確信に満ちていました。みんなにもその素晴らしさを伝えたくて仕方ないほどでした。

けれども、私がロードに乗っていると知った人の多くから「え、意外!」と言う反応が。確かにロードと言えば、非常にスポーティーなイメージの乗り物。そして私の特徴を一口で表すと『ぽっちゃりおばちゃん』。「無理もないか。。」と思いながらも、そんな周りの反応に、私はがっかりしたものでした。自転車がこんなに好きなのに、スポチャリが似合わないなんて。。

著者がスポチャリに乗り始めたのは68歳。この本に書かれている北海道への自転車旅行は73歳のとき、4人の参加メンバーは全員還暦オーバー。私以上に、「スポチャリが似合わない」と言っても良いのではないでしょうか。

 

こうして自転車沼にはまっていった

きっかけは思い出作り?

著者が自転車に乗り始めるきっかけは、定年までに、一度職場まで自転車で行ってみようという、言って見れば「記念に・想い出に」的な意味合いでした。距離にしてして12.5キロ。まさに羨ましいような自転車通勤向けの距離です。

しかし、都内の一般道を、慣れない自転車で往復した初日、

命を落とすか落とさないかという一日だった。排気ガスをたっぷり吸って気絶した私とか、オートバイに跳ね飛ばされて十メートル先に墜落し、アスファルトの道路にピンク色の脳ミソを垂れ流して死んでいる私。そんな想像も次々脳裏をかすめた。

(P25 「自転車に乗って知った世の荒波」より抜粋)

こんなに散々な感想であったにも関わらず、その後も天気さえ良ければ職場まで自転車通勤を続け、やがては自転車の魅力にどっぷりと浸って行くことになります。

もっとも同ページに、

私はトロイ戦争から帰ってきたオデッシュウスの気持ちが分かった。あまたの修羅場をくぐり抜けやっと帰宅したのである。

との描写があるので、ヒロイックな達成感があったのかも知れません。

まずは川沿い、そして峠へ!

この本では、著者がどのように自転車で走る距離を伸ばして行ったのかが描かれています。まずは都内の川沿いの道を行きます。川沿いの道を行く、シンパシーが湧きます!

今まで見慣れた大通りではなく、川沿いの道を行くことで、非日常の景色に迷い込んでどこを走っているのかが分からなくなります。あるいは、普段、車では見過ごしてしまう地名の由来の案内板や石碑などで、その地の歴史に思いをはせたり、また幼い頃の自らの記憶を重ねて、時間をも飛び越えてしまいます

「自転車に乗ると、日常が非日常になる」というのが私が考える自転車の大きな魅力の1つですが、著者は見事にその様子を私たちの目の前に描いてくれています。

さらに著者は地図や古地図にも造詣が深いので、知的好奇心と自転車が絶妙に合致したという点でも、自転車は運命の出会いであったのかも知れません。地図の読めない方向音痴の私は、このような人に説明してもらいながら、後ろをついて走れたら最高です!

自転車に跨がると、このままこいでいればどこへでも行ける、と思ってしまう。

(P45 「脚力の養成を志したこと」より抜粋)

と気づいてしまった著者は、軽井沢、房州、箱根と、どんどん距離を伸ばし、川沿いから峠越えへと移行して行きます。

走り方の幅が広がるにつれ、所有自転車も6台に。。走れば走るほどに、もっと自分に合った自転車があるのではないか、そう思ってしまうお気持ち、笑ってしまうほど分かります。私は2台の自転車と同居していますが、「究極の幻の自転車」は、その姿をヴェールに包み込んで、いつも心の中にあります。

自分と自転車との立ち位置に苦悶する

軽妙洒脱な語り口に見え隠れする真意

さて、本書は著者の軽妙で知的でありながら、歯に衣着せぬ言葉が綴られていてる文章も魅力。読み出したら止まりません。中でも、通りすがりの人々とのやり取りが秀逸です。パンク修理に飛び込んだ自転車店のおやじさん、道を聞こうと話しかけたおじさん、等々。

著者は注意深く相手を「値踏み」します。自分の不利にならないように、計算を働かせて言葉を選んだりもします。それもこれも、著者は、「スポチャリに乗っている自分を、相手はどう見ているのか」そこが気になって仕方ないのではないかー。

思わず、私は自分と重ね合わせてしまいます。

私がロードに乗っている理由は、早く走りたいからではなく、楽に走りたいから。自転車は軽ければ軽いほど楽に早く走ることが出来ます。クロスバイクより、ロードバイクの方が軽いのです。自分の中にはロードでなければならない明快な理由があるのですが、それが世間の人にはどう見えているのか。似合わない、みっともない、危なっかしいと思われている?ロードより折り畳み自転車の方が似合うかな?

著者もやはり、スポチャリに乗っている自分とそれを見ている周囲の人の感じ方の間にあるギャップを意識せざるを得なかったのではないか。著者にとっては、好きなことを、只々楽しいからやっているだけのこと。もちろん、年齢を無視している訳では無く、体力も考えた上で十分に準備をし、余裕のある計画を立て、撤退のタイミングも理性的に心得ています。それでも、それをやっている自分に突き刺さる視線を感じてしまう。

自分の趣味について、迷惑をかけるようなことでなければ、他人にとやかく言われることはないし、どう思われようと気にする必要はありません、本来は。

けれども、自分の年齢に、自分の感覚というのは追いつかないものです。20代の頃、40代の人は揺るぎのない大人であると思っていたのに、いざ自分が40代になると、なんと頼りない子供のままであることか。けれども、周りからは「40代の大人」として見られるので、自分もそれなりに振舞おうと努力します。「その年齢としてあるべき自分」というものに縛られてしまいます。

自分の年齢と折り合いをつける

そんな不自由さから解放される瞬間が、北海道自転車旅行中に訪れます。

著者はこの旅行が、「サイクリングなのかツーリングなのか」とふと疑問に思います。旅の途中に自転車で日本一周をしている若者と出会ったことも影響しているのでしょう。その彼に比べて、自分たちは何をしているのだろうか?走りながら真剣に考えます。そして自分がやっているのは、明るく快活なサイクリングでも、重く求道的なツーリングでもない、ただの老人の自転車旅行である、という結論に至り、胸をなでおろします。

「こうあるべき」そんなイメージから解放され、「楽しめば良いんだ!」と一種の悟りを得た瞬間が、私にとってのこの本のクライマックスでした。

前回読んだときは、70歳過ぎてスポチャリを乗りこなして峠越え、輪行、北海道自転車旅行しちゃうなんてすごい!と、やはり年齢にフォーカスしていました。実際、勇気と希望をもらいました。

でも、今回じっくりと読み返して見て、自分の年齢と折り合いをつけながら、自分らしい自転車の楽しみ方を見つけていく過程に感銘を受けました。私も自分らしい自転車の楽しみ方を見つけたいと思います。

コロナが収まったら、まずは泊りがけで輪行しよう!

最後に

さて、著者の伊藤 礼は、明治の小説家、伊藤 整 のご子息です。英文学者であり、エッセイスト・翻訳家。父のことについては、「伊藤整氏奮闘の生涯」という作品を著述しています。

北海道自転車旅行の最終盤で訪れた美幌を紹介するくだりで、同地を訪れた父の旅行記を参照しています。父が美幌でポークカツを食べ、その66年後に息子が同地でカツカレーを食べる。そしてこの本は終わります。

この知的でありながらやんちゃな息子を、伊藤整はどのように育てたのでしょう。この親子の作品をさらに読んで見たくなります。これぞ、読書の醍醐味ですね!

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